HomeKITASONO KATUE Online Archive | Tama Art Univ., Tokyo | Kaminoge Library | Dept. of Art Science
[Revision: September 2002]
Articles / Essays
□ 建畠晢 「日本の視覚詩の運動について --- VOU と ASA を中心に」
 
 
 
 
 
 
.. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. ..
 
■ はじめに
 
  この小論は、1950年代後半からほぼ20年間にわたる日本の視覚詩の運動を、その中核となった二つのグループ、VOU と ASA の活動に即して考察するものである。
  視覚詩(Visual Poetry)とは、文字通り視覚性をその積極的な要素とするところの詩であるが、一般的には、視覚詩のもっとも強力な国際運動であったコンクリート・ポエトリー(Concrete Poetry)の名で語られることが多い。しかしコンクリート・ポエトリーには音詩、ないし音声詩の分野が含まれていること、また70年前後からは反コンクリティズムの傾向が台頭してくること等の理由から、本稿の対象となるいわゆる“視る詩”の総称としては、あえて視覚詩の名を用いることとする。
  さて日本の視覚詩の展開には、概観して二つの相反する傾向が認められる。一つは視覚性をあくまでも言語表現の範囲内に、すなわち“かたちとしての文字”の領域に限定する方向であり、もう一つは写真やオブジェの使用をも含めて、より広く造形的な要素を導入する方向である。新国誠一が主宰した ASA はほぼ前者の立場にあり、北園克衛が主宰した VOU は後者の立場にあった。運動の初期において密接な相互交流を見せていた VOU と ASA は、やがて方法論上の対立を鮮明にするようになったが、多分にリゴリスティックなこの対立は、運動の局面を一時的に活性化させはしたものの、結果的にはその限界をもたらすものであったように思われる。いささか逆説的に言うならば、視覚詩とは、実作においてよりも、むしろ視覚詩とは何かという定義づけをめぐっての運動であったとさえ見なされるのである。
  もちろんそのことをもって、視覚詩が不毛の教条主義であり幻想のジャンルであったと断定するのは性急にすぎよう。事実、近年、視覚詩の実験を「ことばあそび」の延長上にとらえなおそうとする詩人たちの動きや、記号学的な再検討の機運が生まれており、今後に新たな展開の可能性を残している。しかしここでは日本の視覚詩の運動を、一応70年代後半で終結したものとしてとらえ、以下、VOU と ASA に掲載されたいくつかの宣言を中心に見ていくことにする。
  
■ I. 視覚詩の出発と国際的な背景
 
 
□ 図1: オイゲン・ゴムリンガー「沈黙」1954年
□ 図2: デシオ・ピニャタリ「LIFE」1958年
.. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. ..
 
  日本の視覚詩の事実上の出発点となったのは、北園克衛の1958年の作品「単調な空間」[1]と、1963年に刊行された新国誠一の処女詩集『0音』[2]である。しかし海外の視覚詩の状況とは無縁に、独自になしとげられたこれらの仕事を、国際的なコンクリート・ポエトリーの運動に結びつけたのは一人のブラジル人であった。1957年、ヴィニョ一レス(L. C. Vinholes)は東京のブラジル大使館に文化担当官として赴任したが、詩人であり作曲家でもあった彼は、間もなく VOU のメンバーと接触するようになる。
   VOU クラブは北園克衛によって1935年に結成され、その機関誌『VOU』(ほぼ隔月刊で1978年の北園の死まで、160号が刊行された)は戦前、戦後を通じて一貫してモダニズム詩の拠点であったことで知られる。欧文を多く用い、日本の詩誌としてはめずらしく、国際性を配慮した体裁のものであった
  当時サンパウロには前衛詩人のグループ、ノイガンドレス(Noigandres、1952年結成)があり、ドイツとならぶコンクリート・ポエトリーの拠点として盛んな活動を見せていた。コンクリート・ポエトリーの名称は、本来はマックス・ビルの Konkrete Kunst の理念の影響下にスイスの詩人、オイゲン・ゴムリンガー(Eugen Gomringer)が打ちだした Konkrete Dichtung に由来するが、それが国際的な運動として認知されるようになったのは、1955年にノイガンドレスのメンバー、デシオ・ピニャタリ(Decio Pignatari)がウルム造形大学にいたゴムリンガーを訪ね、Konkrete Poesie の概念を共同提唱したことによる。(なお名称自体としては、すでに1953年にスウェーデンのオイヴィント・ファールシュトレーム(Öyvind Fahlström)が単独で manifest for konkret poesi を出版しているが、小部数のために当時はほとんど目につかなかった。)[3]
  コンクリート・ポエトリーは、その前史を、ステファン・マラルメの「骰子一擲」の語の配列の空間性やアポリネールのカリグラム、ルイス・キャロル、ガートルド・スタイン、エズラ・パウンド、E. E. カミングス、あるいは未来派のタイポグラフィックな表現やダダのコラージュ等に見出すことができる。しかしゴムリンガーらの提唱は、それらの先駆的な試みを、方法論的にさらに徹底させ、詩を純粋に言葉の物質性(音とかたち)の上に位置づけようとするものであった。すなわち、詩の在来のシンタックスや線行による構成の制約から解放して、紙面という一つの空間の中に、文字を、もっぱら視覚面や音響面での効果に寄りながら配置するのである。コンクリートの概念は、したがって言葉は物質であるというテーゼによって、究極的には詩の構造がそのまま詩の内容であることを目ざしたものであるといえる。もっとも実作においては、ゴムリンガーとノイガンドレスの方法はかなり異なっており、前者が構造=内容を文字の配置による「星座」(Konstellation)として実現したのに対し、後者は主にイデオグラムの操作によってグラフィックな空間を強調しようとした。
  さて北園の「単調な空間」は4つの章からなるが、例えばその最後の章は次のようなものである。
  
白い四角
のなか
の白い四角
のなか
の白い四角
のなか
の白い四角
のなか
の白い四角
 
  この作品は一応、行分け詩の体裁をもっているが、彼の詩論にあるように「言葉がもっている一般的な内容や心要性を無視して、言わば言葉を色や線や点のシムボルとして使用」[4]としていること、「いわゆるアレゴリイとかシンボルとかメタファなどを利用して詩を書かないこと、つまり『意味によって詩を作らない』で『詩によって意味を形成』するにとどめる」[5]こと、等の方法において、かなりコンクリート・ポエトリーの概念に近いものであった。ヴィニョーレスの仲介によって、「単調な空間」はノイガンドレスに紹介され、その代表者アロルド・デ・カンポス(Haroldo de Campos)は、1958年にこの詩を日本のコンクリート・ポエトリーとしてサンパウロ州新聞文芸欄にポルトガル語で翻訳発表している。しかしそのような海外での評価にもかかわらず、北園自身はコンクリート・ポエトリーの運動に主体的に参加することはなく、むしろ60年代に入ると、後述するようにコンクリートの“教義”とはおよそ対極的なプラスティック・ポエムを唱えるようになった
  それに対して新国誠一の『0音』は、まさしく日本のコンクリート・ポエトリー“運動”の原点と言いうるものであった。この詩集が刊行されたのは63年だが、北園の「単調な空間」はその5年前であり、また60年にはやはりヴィニョーレスの協力で東京国立近代美術館で「ブラジルのコンクリート・ポエトリー展」が開催されてもいて、なにも刊行自体に先駆的な意味があったわけではない。だがそこに収録された詩は、すべて新国の仙台在住時代(新国は『0音』を上梓すべく1962年に上京した)に、国内外の視覚詩の動きについては何ら知ることなく書かれたにもかかわらず、「子供の城」(図3)「空間断面」(図4)などにおいて、独自にほぼコンクリート・ポエトリー的な文字配置の空間性が獲得されていたのである。ちなみに「空間断面」の初出[6]は、ゴムリンガーらの共同提唱と同じ年の1955年であった。
 
 
□ 図3: 新国誠一「子供の城」(詩集『0音』1963年より)
□ 図4: 新国誠一「空間断面」(詩集「0音」1963年より)
.. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. ..
  
  『0音』の巻末に付されたNOTEで、新国は「詩におけるメタファに疑問をもつ。意識的なデペイズマンの分解、イメージの即物的な凍結を試みる。」[7]と記し、さらに自作を「象形詩」と「象音詩」に分類して、“視る詩”である象形詩については「視覚的な場から、漢字のもつ象徴性を極限のユニットとして、モチーフを発展させたもので、詩的空聞と時間をこえようと意図した。」[8]と述べている。
  この発言は、新国にとって、直接的にはモダニズムの克服を意図したものであった。もちろん社会派、生活派によるモダニズム批判とは正反対の方向においてである。モダニズムの詩の実験が、いわば感覚的な急進主義にとどまり、依然としてメタファを操つりシンタックスを維持しているという限界を、極限のユニットである漢字の象徴性に直裁に目を向けることによって一挙に乗り越えようとしたわけである。
 
■ II. 新国誠一と ASA
 
  さて『0音』は新国を、藤富保男やヴィニョーレスなど、VOU の周辺にいた何人かの詩人たちに結び付けることになった。刊行の翌年の64年、新国と藤富はコンクリート・ポエトリーの基礎研究と詩的実験を目的とした ASA(芸術研究協会、Association for Study of Arts)を設立する。同名のその機関誌は、VOU に較べれば理論誌的性格が強いが、65年から74年までに7号が出され、終始コンクリート・ポエトリーと空間主義を標傍し続けた明快な編集方針を特色とする。
  ASA は当然ノイガンドレスと交流を持ち、すでに64年にアロルド・デ・カンポスの詩集『屈辱通行』(servidão de passagem)を新国が訳出しているが、海外との連係として最も注目すべきなのは、フランスのコンクリートの詩人、ピエール・ガルニエ(Pierre Garnier)との共同宣言や共作であろう。ガルニエは1962年に「新しい視覚詩と音詩の為の宣言書」を発表し、それをもとに翌年、コンクリート・ポエトリーを含む国際運動の総括を呼びかける宣言「国際運動の位置1」を出していた。日本からは VOU がこれに応じ、北園克衛、清水俊彦、藤富保男、それにヴィニョーレスの四名が署名したが、上京まもない新国はまだ参加していない。しかし『0音』を知ったヴィニョーレスの仲介で、64年には新国とガルニエの交流が生まれ、互いの方法の類似に驚いた両者によって、以後、密接な共同作業が展開されることになる
  類似性は一つには、新国の象形詩、象音詩とガルニエの視覚詩(Poésie Visuelle)、音詩(Poésie Phonique)の対応にあるが、それ以上に新国にとって新鮮だったのは、62年の宣言書に見られる大胆な「言葉=物質」論であった。「言葉は元素だ。言葉は物質だ。言葉はオブジェだ。」[9]「それぞれ一つ一つの言葉は、固有の空間をもたなければならない」[10]とするガルニエの姿勢は、「イメージの即物的な凍結」を主張する『0音』の詩論の延長上にあり、同時にそこにまだ残存していた象徴概念を打破するものでもあった
  ASA 第1号に新国はこの宣言を訳出し、翌65年には、相互に草案を交換して起草した「第3回空間主義宣言・超国家詩のために」に共同署名し、ASA 第2号とガルニエの主宰する Les LETTRES(numéro 30)に同時発表している。[11]空間主義(Spatialisme)とは、「存続するのは構造のみである」[12]「言葉を物質のように評価し、心理現象を霧で包みこむのを断ち切る」[13]との条項に見られるように、基本的にはコンクリティズムを継承するものであるが、ガルニエにとってはより深くフランス詩の伝統に根ざしたものであり、また新国との接触によって超国家詩という新たな概念が導入されている
  この超国家詩としての空間主義とは、宣言の(2)にあるように「超国家語と、もはや翻訳ではなく、次第に広げられた言語学の表層での、伝達可能な作品の往来を目的とする」[14]ものである。具体的にはそこでは、異なる国語を紙面に混在させつつも、言葉自身の空間性によって翻訳なき伝達が意図される。両者はこの宣言の実証作品として、同時に13篇からなる『日仏詩集』(POEMES FRANCO-JAPONAIS)をパリで出版し、その一部は ASA 2号にも新国の「覚書」とともに掲載された[15](図5、6)。「覚書」によれば、この超国家詩は「彼が最初にフランス語の字母または単語で作品をつくり、私に送る。その作品をそのまま素材として、私が日本語の文字または単語で合成する」という手順で制作された。「勿論、二人の間には、具体的な打合わせ(例えば字母や単語の撰択とか、造型上の規則など)はなにもなかった。唯一の、しかも確実な出発点は、字母と単語だけであった。だが実際には、この合作の過程においては、私はフランスと日本を意識しないわけにはいかなかったし、終始両国語の風土や文化圏を想起しないわけにはいかなかった。それは、少くともこれまでにないほど私をピエル・ガルニエに近づけたことも確かであり、この製作を通して発見した、文字通り国家を超えての人間回復でもあった。」と彼は続け、さらに「むしろこの点に(つまり作品制作の過程に)こそ、“超国家詩”のもつ大きな意義がある」[16]と述べている。
 
 
□ 図5: 新国誠一とピエール・ガルニエの共作「プロメテウスの火」(「日仏詩集」1966年より)
□ 図6: 新国誠一とピエール・ガルニエの共作「沈める寺」(「日仏詩集」1966年より)
.. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. ..
  
  両者の共同制作は一方ではわれわれに容易に連歌の世界を想起させるし、また他方ではバウハウスの理念を受けてゴムリンガーが提唱した「詩人の共同作業の必要性」の問題との関係性を思わせるが、こうした面からの検討は別の機会にゆだねることにしたい。ともあれ超国家詩はその後も生産的な方法として生きつづけ、70年には両者で一つの単語を合成する「ミクロポエム」(MICROPOEMES、図7)が[17]、71年には幾何学的な構成による「数学的簡略小詩篇」(PETITS POEMES MATHEMATIQUES SIMPLISTES)[18]が、また音素詩の共作としては66年に「風土」(CLIMATS)が、いずれも郵送による交互作業で制作されている。結果として作品はアルファベットと漢字、かなの直截なつき合わせという形をとることになるが、そこには軽妙なユーモアとともに、相互に相手を異化しあうようなある種の生々しさが感じられ、超国家詩としての壮大な意図はともかく、単独の作品にはないユニークな効果を生んでいるのは事実である。
  さて『日仏詩集』にも明らかなように、ASA 時代の新国の手法の最大の特徴は、同じ文字(ないし文字の断片的な要素)を、紙面の中に規則的に、あるいは乱脈に反復させることにあると言ってよい。新国自身の作品では同じ ASA 第2号に掲載された「川または州」(図8)「闇」(図9)などにその典型が見られるが、とりわけ前者は、漢字によるコンクリート・ポエトリーの代表作として広く知られている作品である。同じ字の反復による意味からのかたちの自立(ないし遊離)という方法に加えて、「川」と「州」という似た字形の対比が試みられ、この類似による逆説的な相互異化が、言葉の空間性をさらに如実なものとしているわけである。全体の整然とした無機的な構成の中に、言葉の解体の契機をひそませた、極限的表現といえよう。
 
  
□ 図7: 新国誠一とピエール・ガルニエの共作「ホ」(「ミクロポエム」1970年より)
□ 図8: 新国誠一「川または州」1964年
□ 図9: 新国誠一「闇」1966年
.. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. ..
  
  1968年、新国は先のガルニエとの共同宣言を踏まえて、ASA のコンクリティズムを主体的に構築すべく「空間主義東京宣言書:1968」[19](ASA 第3号)を和英両文で発表する。「道具言語を解放させ、衰えかけた文明のなかに埋没した原初経験を、コトバそのものが取り戻すこと」といった前文を付して、以下の12項目を並べたてたものである。
 
コトバは、ある機能的個体としての物質である。
コトバは、ある言語学的オブジェである。
コトバは、「ことばの皮膜」をもつ。
コトバは、ただ報道するだけである。
コトバは、「現象学」への通路である。
コトバは、視覚的、聴覚的緊張を併った構造性の美学をもつ。
コトバは、意味論的及び美学的情報をもつ。
コトバは、「空間化されたエネルギー」をもつ。
コトバは、目にみえる世界と耳にきこえる世界の芸術である。
コトバは、たえず国語をのり越えようとしている。
コトバは、新しい文明そのものがもっている空間の美学的計画のなかで、超国家語となるであろう。
コトバは、その文明の新しい様式を証明する。
 
  これらの条項は、ガルニエの空間主義、ゴムリンガーのコンクリティズム、マックス・ベンゼの情報美学等を、いささか未整理のままに羅列したかの感がないでもないが、基本にあるのは「言葉=物質」という強固な認識であり、それによってモダニズムを克服し、多少なりとも言語学的なフィールドの上に、詩による「原初経験」の奪回を理論づけようとするものであったといえる。
 
■ III. VOU と ASA の対立
 
 
□ 図10: 北園克衛「プラスティック・ポエム」1966年
□ 図11: 北園克衛「プラスティック・ポエム」1975年
.. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. ..
  
  モダニズムの拠点であった VOU クラブは、早くから造形芸術への関心を強く示しており、コンクリート・ポエトリーが紹介される以前の1956年に、すでに photopoems による第1回の展覧会を東京の櫟画廊で開催している。機関誌『VOU』も、毎号かなりの紙面を photopoems にあてているが、しかし VOU の視覚詩の理論が、宣言としてまとめられたのは意外に遅く、1966年の VOU 104号にまず英文で、105号に和文で発表された北園の「造形詩についてのノート」(A note on plastic poem)[20]を待たなければならない。これは表面的には、写真による詩の可能性を主張したものだが、プラスティック・ポエムの概念は、より広く造形主義への傾斜を、あるいは詩と美術との融合をはかるものであったといえよう。
  「鵞鳥の羽根ではじまった詩の歴史は、ボールペンでおわるべきである。」という冒頭のアフォリズムは、単に線行の構成やシンタックスの放棄のみを呼びかけるのではなく、むしろ脱言語主義の立場を明らかにするものである。さらに「未来派、ダダ、立体派の水源から流れてきた実験詩の流れは、コンクリート・ポエムというちいさな水溜をあちらこちらにつくっているが、それはやがて消えてしまうつかの間のきらめきを私に思わせる。」「詩人よ、きみが言語の最高のクラフツマンであるということについて、人々の喝采をいつまで待っているつもりなのか」といった段落を見るならば、この脱言語主義は、在来詩に対するものであると同時に、その末裔としてのコンクリート・ポエトリーの些末な文字表現へのこだわりをも痛烈に批判するものであった。理論を先行させ、その実証として作品を制作する ASA などの姿勢は、北園の眼にはおそらく無意味なリゴリズムとうつっていたのである。
  VOU が必ずしも総体として反コンクリティズムをかかげていたわけではないにせよ、このころから ASA との方法論上の乖離は顕著になり、以降、しだいに対立の様相を見せはじめる。
  ところで北園は、自身の写真によるプラスチック・ポエムの方法について、つぎのように記している。
  
  カメラが発明されてから今日まで、カメラは単なる黒い箱であり、記録する鏡にすぎなかった。私はその四角な箱に新しい生命をあたえる方法を考えた。そして私の「思考するカメラ」が私の部屋にちらばっている紙屑や役に立たない何かの破片や断片からとられた物質のミステリーが私のこれからのプラスチックポエムである。[21]
 
  北園には『Moonlight in a bag』(1966年、VOU クラブ刊)『Study of man by man』(1978年)の二冊の写真詩集があるが、その収録作品は基本的にはダダ的な「オブジェ」の意識にもとづくものである。しかしその感覚は自ら「物質のミステリー」と称するごとく、いかにも都会的に洗練され、視覚化=詩的インパクトの純化、ともいうべき極度に繊細なイメージを演出する
  当然ながら新国は、VOU の造形主義、脱言主義に対する容赦のない批判者としての立場にあった。名指しこそしてはいないが、明らかに北園のプラスティック・ポエムを前提とした写真詩への攻撃「詩のなかの言葉と写真」[22]を、彼は ASA 第6号(1972年)に発表している。写真許容派とコトバ派の対話形式によりながら新国はそこで「線条的統辞法を徹底的に拒絶すれば素材である言語記号まで拒絶することになるのは確かだよ。(中略)非言語的記号に誘惑を感ずるのは私なりにわかるんだ。」と一応は認めつつも、しかし、写真や映像はつねに言語の補助的な手段しか果しておらず、写真だけのものは視覚詩とは考えないと切り捨てる。「語や語の要素を否定して、ノンヴァーバルな記号、写真みたいなものだけで視覚詩と考えるのはデタラメだよ。写真でも映像でも全くの言葉の補助なしには、完全な伝達はおぼつかないし、意味だってそうだ。(中略)瞬昧な気分の共有だけで終わるのが落ちだ。」
  しかしこのような VOU 批判の背景には、おそらく70年代にますます顕著になってきた国際的な反コンクリティズムの傾向への、新国のいらだちがあったようにも思われる。美術におけるミニマリズムからコンセプチュアリズムヘの展開に呼応した詩人達の動きや、フランスのジャン・フランソワ・ボリー(Jean-François Bory)のブック・オブジェ的な Post-Scriptum の試みなどが、コンクリート・ポエトリーの精緻な理論体系とは無縁に進行し、むしろ美術ジャーナリズムによって当時さかんに取り上げられるようになっていた。新国にある一種の科学主義、詩論と言語学の一致を意図するかのような姿勢は、そうした状況下で、しだいに教条主義的な排外性を示すようになり、ASA のメンバーにいた造形派やビジュアル・デザイン派はつぎつぎと脱落を余儀なくされていった。また VOU の清水俊彦が日本側のコミッショナーとなって組織した1976年の東京イタリア文化会館の大規模な「ことば・イメージ・オブジェ」展にも、その反コンクリティズムを嫌って、かたくなに非協力を押し通した
  1973年、新国は再度コンクリート・ポエトリー運動の体制のたてなおしをはかるべく「ASA 宣言書:1973」を出し、これを ASA の綱領として会員に署名を求めた。付された覚書には「本宣言書の明確な特徴は、言語芸術の詩(元義的な)としての再確認であり(中略)従って作品の性格も各種ジャンルを主軸とする混成芸術は一切排除される」と記され、新国のリゴリズムはさらに先鋭なものとなっている。宣言書は、75年の結果的に ASA 最終号となる第7号(10周年記念号)に和英両文で掲載されたが[23]、そこに併記された署名者は、上村弘雄、藤富保男、鍵谷幸信、向井周太郎、清水俊彦、L. C. ヴィニョーレス、新国誠一の7名であった。
  さて宣言書は下記の15項目からなる。
 
1. その詩は詩という「もの」である。
2. その詩は「詩」に強勢をおく。
3. その詩は「構想」を強調する。
4. その詩は言語固有の美の創造をめざす。
5. その詩は超国家的である。
6. その詩は言語の構造と機能の全体関連をめざす。
7. その詩は視覚と聴覚と意味の一体化したものである。
8. その詩は語や語の要素が視覚あるいは聴覚エネルギーの中心となる。
9. その詩は音素や語の音響そのものでつくられる。
10. その詩は瞬間了解の伝達方法をもつ。
11. その詩は表意文字の性質をもつ。
12. その詩は混成芸術ではない。
13. その詩は環境形成の手段として生産される。
14. その詩の世界像はわれわれが使用する言語に規定される。
15. その詩は空間文明時代の人間の宇宙的存在を意識する。
 
  宣言は最初の草稿では14項目であったが、新国は、後述する ASA の中心のメンバーの一人上村弘雄との四度にわたる往復書簡によって全文に手を加え、上記の決定稿に到達するというかなり周到な手順を踏んでおり、68年の宣言に比して、明らかに整理された内容のものとなっている。草稿は現在、往復書簡とともに武蔵野美術大学の美術資料図書館に蔵されるが、そこには欄外に細かく起草過程が記されているのが興味深い。すなわち決定稿で言うと、1、12、14 は新国自身の成文であり、6、7、10、11 はノイガンドレスの敷衍、2、5、8、15 はガルニエの空間主義の敷衍、2、13 はゴムリンガーの敷衍である。まさしく新国はここで、時代の流れに逆らいつつ、コンクリティズムの集大成を試みたわけである。もっともそのために、全体としての印象は、運動のための指針というよりは、一種の回顧的な分析とでもいった趣きを感じさせているのが、皮肉といえば皮肉である。
  ともあれ新国は実作の質において、運動の果敢さにおいて、日本のコンクリート・ポエトリーの水準を示す作家であったことは間違いない。74年に、ヤッシャ・ライハートの企画でロンドンのホワイト・チャペル・ギャラリーで「新国誠一視覚詩展」が開催されたのも、彼のイデオグラムに対する海外での高い評価を物語るものである。
 
■ IV. その他の詩人たち
 
  以上、VOU と ASA を対比させつつ述べてきたが、しかし両者の対立とは、究極的には新国のドグマをめぐっての問題であり、必ずしもそれぞれのメンバーが、脱言語主義とコンクリティズムに色分けされていたわけではない。むしろ文学、音楽、デザインなどの研究者や作家が、各自の問題意識から、“部分的な関心”で運動に参加したケースが多いようである。両派の主だった詩人たちの仕事と運動の中における位置について、以下、概略を紹介しておくことにしよう。
  先に述べたように藤富保男は ASA の創立者であるが、また VOU との関係も深い詩人である。新国のもっともよき理解者ではあったが、藤富自身は、コンクリート純粋主義には拘束されることがなく、線描などをまじえた自由でユーモラスな作風を示す。
 
 
□ 図12: 藤富保男「nothing」1966年
□ 図13: 藤富保男「日本銀行で会った女」1974年
.. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. ..
 
  上村弘雄と向井周太郎は、共にドイツ留学の経験を持ち、上村はシュトゥットガルト派のマックス・ベンゼのテクスト理論の紹介者として、向井はマックス・ビルからゴムリンガーへのコンクリートの概念の紹介者として、ASA の理論形成の中心となった作家・研究者である。実作者としては、向井は漢字の象形性を意味論的に分解した精緻なタイポグラフィーや、「大気」(1976、図14)にみられるような独自の視覚詩=音声詩の相互的な世界を試みている。上村は漢字の反復によって一つの面を形成し、そのイメージに漢字本来の意味との対応関係を持たせる(たとえば「畦」に蛙をひそませる。図15)といったウィットに富んだ手法を案出している。
  ASA の主流は、そのような文字の集積による面構成にあったが、梶野秀夫は単独の漢字の示す図形性に目を向け、その基本構造を幾何学的なパターンとして形象化するという独自の方法を一貫させた異色の作家である。
 
  
□ 図14: 向井周太郎「大気」1976年
□ 図15: 上村弘雄「畦」1972年
□ 図16: 梶野秀夫「品」1970年
.. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. ..
 
  VOU の詩人でまず注目すべきなのは、ASA とも交流の深かった清水俊彦である。清水は音楽から美術にわたる広範な批評活動でも知られる詩人だが、60年代以降の視覚詩時代の VOU にあっては、北園の意を挺した中心的なイデオローグとしての位置を占めた。清水の視覚詩は一種のコラージュ作品である。印刷物の写真や文字をセロ・テープを使って帯状にはがしとり、それを寄せ集めたもので、きわめて絵画性が強く、またそのダダ的、ポップ・アート的感覚において、およそコンクリティズムとは対極的な世界である。しかし新国の最後の ASA 宣言にも署名するなど、藤冨同様、終始柔軟な姿勢で日本の視覚詩の運動を支えようとした。
 

□ 図17: 清水俊彦「letter picture」1966年
.. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. ..
  
  一方、高橋昭八郎は VOU の反コンクリティズムを代表する作家である。「さまざまなジャンルの形式的な分類が溶解してしまった今日、視覚芸術にはすでに特定のメディアがあるというわけではない。視覚的な記号の宇宙は、このメディアの不在それ自体をメディアとしなければならないという逆説的な現状をとおして、むしろかつてないひらかれた領域―インターメディアヘとむかっていく」[24]と自ら述べているように、高橋は既存のジャンルの解体を前提に、多彩な表現領域の実験を試みた。たとえばポエムアニメーションと称する詩集『影』(図18)[25]は、紙細工のような特異な頁構成によって、言葉やイメージをブック・オブジェに結び付け、“視る=読む=触る”ことを相互的に体験させるような空間を創出している。
 

□ 図18: 高橋昭八郎 ポエムアニメーション No.3「影」1968年
.. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. ..
  
  なお最後に、VOU、ASA による視覚詩の運動とはまったく別個の特筆すべき試みとして、1976年に私家版で出された塩見允枝子の英文によるイヴェント記録集『SPATIAL POEM』[26]を挙げておく必要があろう。これは、65年から75年の間に順次、「ことばのイヴェント」(カードにことばを書きどこかへ置く(図19))、「落下のイヴェント」(何かを落下させる)、「影のイヴェント」(透明ビニール・シートに黒く印刷されたSHADOWという文字の影を映す。図20)といった九つのイヴェントを各自、試みるよう世界各国のさまざまなジャンルの作家、批評家に送り、20数カ国、200余名から返送されてきた文章や写真によるその報告を、イヴェントごとに、世界地図の上にまとめて記録したものである。たとえば「ことばのイヴェント」では、リチャード・ハミルトンは「What?」を“見えぬ場所”におき、ジョン・ケージは「EGG」を机の上におくといった具合だが、夥しい量の記録を、簡潔なレイアウトで処理して行く手際は、視覚詩の詩人たちには欠落した、“叙事詩”的な世界への展望を感じさせるものである。
 
 
 
□ 図19: 塩見允枝子「ことばのイヴェント」(「SPATIAL POEM」1976年より)
□ 図20: 塩見允枝子「影のイヴェント」(「SPATIAL POEM」1976年より)
.. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. ..
  
■ おわりに
 
  ともあれ日本の視覚詩は、1977年、78年の新国と北園のあいつぐ死によって、運動としてはほぼ解散状態にあるといわなければならない。もちろん、ASA のメンバーであった吉沢庄次による「視詩の会」(機関誌『視誌』)や藤富保男の詩集『文字文字する詩』[27]などの個別の営為がその後にないわけではないが、運動の規模、国際性、理論構築の体系性において、ASA や VOU に匹敵する動きは今のところ見られないようである。しかし冒頭にも述べたように必ずしもそれは視覚詩のジャンルとしての不毛性を意味するものではあるまい。周辺に目を向けるならば、文字を取り入れた絵画の流れやエディトリアル・デザイン、音楽のグラフィック・スコアーなどに、その直接、間接の反映を見ることができ、今後より広く視覚詩的方法の可能性を注視して行く必要があろう
  ところで、日本の視覚詩の運動において奇異に思えることは、それが若干の例外[28]を除いて、ほとんど書の世界とは無関係に展開されたことである。国際的に見ても視覚詩はカリグラフィーよりもタイポグラフィーの方に密接に結びついた運動であった。一つにはそれは、コンクリート・ポエトリーの根底にある構成主義的な性格によるものであろう。書の筆意、筆触を主体にした表現主義的空間とコンクリートとは、確かになじみにくくはあった。また詩における前衛として、書の世界の因習性への反発がなかったとはいえない。しかしかたちとしての文字への関心という意味では、視覚詩のもっとも近くにいたはずの書に対して、何ら積極的なアプローチがなされなかったという事実は、後からみるといささか不自然なことのように思われる。表現のタイポグラフィーへの傾斜は、逆に一種の趣味性の世界として、視覚詩の運動の幅を狭めるものではなかっただろうか。この問題は視覚詩が、いわゆる現代詩の世界にほとんど影響を与えなかったこと(もっとも大岡信、谷川俊太郎、那珂太郎などの視覚詩に関心を持った詩人がいないわけではないが)の不自然さとともに、今後さらに検討してみたいと考えている。
 
 
  追記:本稿は昭和56年の美術史学会関西支部例会に発表した「絵画と言葉 --- 戦後美術の展開への―視点 ---」(その後京都芸術短大『瓜生』第5号に掲載した)とともに、文部省科学研究費(奨励研究A)の報告をなすものである。資料の閲覧等で特別の便宣を計っていただいた武蔵野美術大学の滝沢敬三氏、ASA、VOU の運動の実態についての取材に快よく応じて下さった向井周太郎氏、清水俊彦氏、貴重な資料を提供していただいた高橋昭八郎氏、菅原猛氏、山中良二郎氏の各氏に厚く御礼申し上げる。
 
  [ 初出 --- 『国立国際美術館紀要』 第1号(大阪・1983年):27-39頁 ]
 
 
  (Akira Tatehata / 多摩美術大学芸術学科教授)
 
.. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. ..
 
■ 注記
  
[1]北園克衛詩集『煙の直線』所載(国文社、1959年)
   
[2]新国誠一詩集『0音』(昭森社、1963年)
   
[3]エメット・ウィリアムズ(北園克衛訳)「具体詩とは何か」『VOU』114号(VOU クラブ、1968年)p. 30
   
[4]北園克衛「詩における私の実験」『黄いろい楕円』(宝文館、1953年)ただし引用は現代詩文庫1023 『北園克衛詩集』(思潮社、1981年)の再録より。p.118
   
[5]前掲書 p. 123
   
[6]新国誠一「空間断面」『氷河』10号(1955年)
   
[7]新国誠一「NOTE」『0音』P. 44
   
[8]前掲書 p. 44
   
[9]ピエール・ガルニエ(新国誠一訳)「新しい視覚詩と音詩のためのマニフェスト」『ASA』第1 号(芸術研究協会、1965年)p. 24
   
[10]前掲書 p. 26
   
[11]「第3回空間主義宣言書・超国家詩のために」『ASA』第2号(1966年)p. 5
参考までに全文を紹介する。
 
第3回空間主義宣言書 --- 超国家詩のために
 
  こんにちの文明は、衰えかけた文明の心臓に存在している。
  国家は、もはや民間伝承以上のものではないとすれば、詩人はことばを“遠国に送りこむ”義務がある。
  それゆえ、空間主義とはさまざまな時代錯誤の意識を捉えさせることを目的とする。
  --- 詩のなかに、こんにちの文明のなかに、はっきり人目につくように置くことである。(それには人間性の変化による援助がある。われわれは、あらゆる同時代に向って、つき進んで行く:技術時代とか空間時代に向って)--- 超国家的言語学の行為を定義し、全世界の限界について定義することである。
 
  なぜ空間主義なのか?
  1)詩人はことばを物質のように考え、ことばが眼前に客観的にあるように苦心する。詩人は、これらのことぱのあらゆる要素によって、テキストを創造(また製造)する。このことばの要素とは、語句、単語、文字、音節、アクセント、分節、呼息であり、またこれらの要素によって満たされた意味論と美学の情報を伴ったものである。詩人はこのようなことぱを、自立したひとつの宇宙と考え、創造、増殖、拡散の技術としてあらゆる手段に利用する。したがって、詩の領域のおびただしい拡大のために、ことばが動揺するということは、つまり創造のさまざまな可能性の増殖の中での、ある空間性をさすのである。
  2)空間主義は、ますます拡大された言語学の表面での、もはや翻訳は不可能であるが、伝達可能な超国家語とその作品のための国語の転化推移を目的とする。
  3)この空間性は詩の領域の拡張によって指向され、それは、一方では音楽(音声詩)に接し、他方では形象絵画(視覚詩)に接している。だが、いずれにせよこの空間性は、言語学的要素によって形づくられているという理由から、ポエジィを持続するのである。したがって、空間主義は伝統的典型としての否定から生まれるのではなく、それらの拡張と膨張から現われるのである。
 
  超国家語に向うそれぞれの国語の転化推移には、いくつかの機会が生まれる。
  1)詩人は言語学的結晶体を --- 適切な選択によって--- それぞれのことぱの中に創りあげるが、それは非常に広大な言語学の表層での、慎重に考慮されたことばとして、満足することのできる美学的情報と共に創られるのである。
  このような言語学的オブジェの創造によって、あるいは、物質のように考えることばの客観的な操作によって、詩人は、感傷的な、歴史的な、または表現主義的な、精神的な内容のことばを露わにするのである。
  存続するのは構造のみである。これがつまり、美学である。
  詩人は、このようにことばを“反神話化”する。
  空間主義固有の客観的な創造の条件のなかで、あらゆることばは --- 同じようなあらゆる国語も --- 詩人たちの素因によっている。それは英語を母国語とする作家は、スペイン語、ロシヤ語、アラブ語、日本語で、制限づきの理解力を身につけるという条件で、具体詩を創り出すことができるからである。彼はより純粋なものを、ことばのひとつひとつから彼等にかわって抽き出すのである。
  2)ことばの本質にひそむ共通の記号、分節、呼息、身振りなどの探究を、同時に追い求めるときに、われわれはすべての人間性について思い浮かべるのである。これらの探究によって開発によって創造によって、
  a)ことばを物質のように評価し、心理現象を霧で包みこむのを断ち切る。
  b)詩的芸術は、すべてにたいして有効な(客観的な国語の外側で)創りあげられる。
  c)これらの結晶体として縮約された、めいめいのことばは、超国家の見取図の上に、これらのことばの放射を体験する。なぜなら、これらのことばは、さまざまな原型によって充たされているからである。
  d)テキストは、それ自体増殖する共通した言語学的要素によって創られる。(例えば音声)
  e)超国家語は、新しい文明空間のなかの、美学の世界で発見され始めつつある。
  f)詩人の活動とは、全人間性のための、言語学的美学と共通のことばの探険のなかで、学者と宇宙旅行者を結合することである。
  g)この行為こそ、詩人が地球の包装を炸裂させる人間性の生成に向って、ともに参加することなのである。
 
     新国誠一(東京)、ピエル・ガルニエ(アミアン)
     1965年11月
   
[12]前掲書 p. 7
   
[13]前掲書 p. 7
   
[14]前掲書 p. 7
   
[15]新国誠一、ピェル・ガルニエ“poémes franco-japonais ”『ASA』第2号(1966年)p. 2
   
[16]新国誠一「覚書:《POEMES FRANC0 - JAP0NAIS》」『ASA』第2号(1966年)p. 10
   
[17]新国誠一 + ピエール・ガルニエ「ミクロポエム」『ASA』第4号(1970年)p. 3
   
[18] 新国誠一 + ピエール・ガルニエ「数学的簡略小詩篇」『ASA』第5号(1971年)p. 19
   
[19]新国誠一「空間主義東京宣言:1968」『ASA』第3号(1968年)P. 2
   
[20]北園克衛「造形詩についてのノート」『VOU』105号(1966年)P. 3
Katué Kitasono "A note on plastic poem" VOU 104, P. 23
参考までに全文を紹介する。
 
造型詩についてのノート 北園克衛
 
  話し言葉の時代が去り文字の時代がおわって、いまやわれわれは映像の時代まで到達した。Michel Ragon.
  大衆が半信半疑の時代以前にすべてのヌーボーは輝いているのである。Dr. Nakahara Minoru.
 
  鵞鳥の羽根ではじまった詩の歴史は、ボールペンでおわるべきである。そして、現代の詩人がボールペンのつぎにどのような表現の道具を選ぶかによって、詩の運命は滅亡するか、未来に向かって新しい発展の機会をとらえるかのわかれ道にきている。
 
  このような時期にあって、詩人が選ぶ表現の道具のひとつにカメラがある。カメラは失敗した1握りの詩の紙屑からも美しい詩をとりだすことができる。
 
  言語は人間がてんでんばらばらにつくりだした、最も不正確な伝達の記号である。禅、哲学、文学などは、それをますます手のつけられないがらくたにしてしまった。
  詩人の創造物である詩が、禅や哲学のような骨董的な精神構造のためにあるなどという考えは、全くナンセンスである。
 
  プラスティック・ポエムは、ラインやスタンザを必要としない詩そのものの形態であり、リズムや意味を必要としない「詩のための装置」である。
 
  未来派、ダダ、立体派の水源から流れてきた実験詩の流れは、コンクリート・ポエムというちいさな水溜りをあちこちにつくっているが、それはやがて消えてしまうつかの間のきらめきを私に思わせる。
 
  詩人よ、きみが言語の最高のクラフツマンであるということについて、人々の喝采をいつまで待っているつもりなのか。そんな喝采など永遠にきはしないのである。
 
  私は私のカメラのファインダーのなかで、1握りの紙屑やボール紙やガラスの切れ端によって、ポエジーを演出する。
 
  それがプラスティック・ポエムの誕生である。
   
[21]北園克衛「写真詩についての意見」『VOU』119号(1969年)P. 29
   
[22]新国誠一「詩のなかの言葉と写真」『ASA』第6号(1972年)P. 20
   
[23]「ASA 宣言書:1973」『ASA』第7号(1975年)p. 1
   
[24]高橋昭八郎「環境とシステムの回路」『VOU』120号(1969年)P. 13
   
[25]高橋昭八郎、ポエムアニメーション3『影』(1968年)
   
[26]Mieko Shiomi、SPATIAL POEM(1976年)
   
[27]藤富保男「文字文字する詩」(点点洞、1983年)
   
[28]山中良二郎の「風」など、“書”的な表現を取り入れた作品が、若干ながら存在する。
 
.. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. ..
 
  Top of this page ▲